高校野球の中継を見ながら「甲子園って、大林組が突貫工事で建てたんでしょう?」と聞かれて、何か月で建てたのか、なぜそんなに急いだのかまでは答えられなかった。そんな経験はありませんか。
結論からお伝えすると、甲子園球場(完成したときの名前は「甲子園大運動場」)は、阪神電気鉄道(以下、阪神電鉄)が発注し、大林組が施工しました。工事は1924年(大正13年)3月11日の起工式から、8月1日の竣工式まで、4か月半ほどで完成しました。大林組は自社の記録で、これを「わずか4ヵ月半で完成した日本初の本格的野球場」と紹介しています。
この記事で紹介するのは、大林組の社史、阪神甲子園球場の公式サイト、1924年に阪神電鉄が発行した工事の記録、日本高等学校野球連盟(日本高野連)の記事を突き合わせて分かった、次の4つです。
- 資料によって違う日付の、正しい読み方
- 牛と人の手で進んだ、100年前の工事現場の様子
- 工事が始まる前から進んでいた準備
- 100年後の今も続く、大林組と甲子園の関係
雑談のネタとしても、自社の工期の組み立てを考えるヒントとしても使える話を選びました。
甲子園球場を建てたのは大林組?施主・設計・施工と基本データ
甲子園球場の工事で、実際に建てる役目を担ったのが大林組です。発注したのは阪神電鉄で、完成した球場は竣工式から12日後の8月13日に、第10回全国中等学校優勝野球大会(今の夏の甲子園)の舞台になりました。
建物の話をするときは、「誰が発注し、誰が設計し、誰が建てたのか」を分けておくと、話が食い違いません。完成時の基本データは次のとおりです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 完成時の名前 | 甲子園大運動場(外観の看板は「阪神電車甲子園大運動場」) |
| 発注・所有 | 阪神電鉄 |
| 設計 | 阪神側の資料では、阪神電鉄の技師・野田誠三。大林組の社史の写真説明では「設計 大林組」 |
| 施工 | 大林組 |
| 工期 | 1924年3月11日の起工式〜8月1日の竣工式(阪神甲子園球場の公式年表による)。当時の記録にある工事そのものの日付は次の章で紹介 |
| 最初の選手権大会 | 1924年8月13日 第10回全国中等学校優勝野球大会 |
| 内野席 | 鉄筋コンクリート造の50段。鉄製の屋根「鉄傘(てっさん)」で覆われていた |
| 外野席 | 土を盛った上に作った20段の木造席 |
| 座席の数 | 合わせて5万人分 |
設計は、資料によって書き方が違う項目です。甲子園歴史館は「阪神電鉄の社員だった野田誠三技師の設計のもと、大林組が施工しました」と書いており、日本高野連の記事も、設計は野田誠三が担当したとしています。一方、大林組の八十年史と百年史の写真説明には「設計 大林組」とあり、どちらが正しいかを示す資料は見つかりませんでした。そのため、この記事では両方を紹介するにとどめます。
完成時の名前が「甲子園球場」ではなく「甲子園大運動場」だったのは、野球だけでなく陸上競技などにも使える運動場として造られたからです。
「4か月半」はいつからいつまで?資料で違う日付を整理
阪神甲子園球場の公式年表では、1924年3月11日に起工式、8月1日に竣工式が行われています。この2つの式の間が、4か月半ほどです。
一方、阪神電鉄が8月1日に発行した「甲子園大運動場建設概要」という冊子では、3月11日は地鎮祭、実際の起工は3月16日、竣工は7月31日と記されています(野球殿堂博物館の所蔵資料の紹介による)。こちらで数えると4か月と15日で、冊子も工事期間を約4か月半としています。どちらで数えても、4か月半ほどの工事だったことに変わりはありません。
ほかの資料の書き方と並べると、次のとおりです。
| 日付(1924年) | 建設概要での出来事 | ほかの資料での書き方 |
|---|---|---|
| 3月11日 | 地鎮祭 | 阪神甲子園球場100周年サイトの年表では「起工式」 |
| 3月16日 | 起工 | 日本高野連の記事は「3月16日に起工」 |
| 7月31日 | 竣工 | 大林組の沿革・社史は「7月 竣工」 |
| 8月1日 | 開場式 | 阪神甲子園球場100周年サイトの年表では「竣工式」。この日に「甲子園大運動場」と命名 |
資料によって、始まりが3月11日だったり3月16日だったり、完成が7月だったり8月1日だったりします。ただ、並べてみると、どれもこの4つの日付のどれかに当たります。式の日と工事の日を分けて読めば、資料どうしは食い違っていません。
工期の書き方も同じです。大林組120年史は「わずか4ヵ月半」、甲子園歴史館は「着工から竣工まで4.5カ月」、日本高野連の記事は「5カ月足らずの突貫工事」と書いており、どちらの数え方とも合っています。
雑談で使うなら、「1924年3月11日の起工式から、8月1日の竣工式まで4か月半ほど」と言えば、阪神の公式年表どおりです。
なぜそこまで急いだのか?鳴尾球場にあふれた観客と夏の大会
甲子園の建設が急がれた背景には、それまでの会場だった鳴尾球場が、大会の観客を収めきれなくなっていたことがあります。
豊中から鳴尾へ、それでも足りなくなった
今の夏の甲子園にあたる全国中等学校優勝野球大会は、1915年に大阪・豊中のグラウンドで始まりました。見に来る人が増えて豊中では受け入れきれなくなり、1917年の第3回大会からは、阪神電鉄が用意した西宮の鳴尾球場に会場を移しています。
鳴尾球場で大会が開かれたのは、1923年の第9回大会までの7年間です。その最後の年の8月、準決勝の甲陽中(兵庫)と立命館中(京津)の試合中に、多くの観客がグラウンドになだれ込み、試合が中断しました。この騒ぎが新しい大球場の建設を急がせることになった、とされています。
建設の決定から大会まで、9か月足らず
阪神電鉄が新しい球場の建設を決めたのは、その年の11月28日です。翌年8月13日の第10回大会までは、9か月足らずしかありません。
建設を中心になって進めたのは、阪神電鉄の三崎省三です。阪神甲子園球場の公式年表は、鳴尾球場の混雑に加えて、三崎が日本で野球が盛んになると考えていたことも、建設を進めた理由に挙げています。
当時の現場はどんな様子だった?牛車と人力と、「設計ミスでは?」と言われたセメント
100年前の現場の様子は、当時の写真と、関係者が書き残した記録からうかがえます。ここでは、雑談で使いやすい話を3つ選びました。
牛が資材を運び、土をならした
甲子園歴史館が公開している建設中の写真には、牛車で資材を運んでいる様子が写っています。歴史館も「一見のどかな工事風景」と書いていますが、その現場で5万人分の球場を4か月半ほどで仕上げたわけです。
グラウンドづくりも、人と牛が頼りでした。阪神甲子園球場の公式年表によると、土は人力で運び込まれ、牛にローラーを引かせてならしたといいます。1924年の建設概要に載った工事写真にも、フィールドで牛がローラーを引く姿が写っています(野球殿堂博物館の紹介による)。
「まだ要るのか」と言われた大量のセメント
日本高野連の記事では、三崎の孫が残した手記が紹介されています。工事中は毎日のように大量のセメントが運び込まれ、阪神電鉄の社員や工事の関係者の間で「まだ要るのか!まだ要るのか!」「設計が間違っているのではないか?」といったやり取りがあったそうです。記事は、それほど当時としては破格の大きさだった、と伝えています。
最も神経を使ったのはグラウンドの土
阪神甲子園球場の公式サイトは、球場建設でいちばん神経を使ったのがグラウンドの土だったと伝えています。阪神間はもともと白っぽい砂の土地で、そのままではボールが見にくかったからです。
そこで各地の土を取り寄せて試し、熊内(くもち)の黒土に淡路島の赤土を混ぜて敷き詰めました。当時の担当者は、実際にグラウンドを走ったり滑り込んだりして、土の硬さや色を確かめたそうです。
ちなみに、甲子園名物のツタが植えられたのは、完成した1924年の冬です。コンクリートのままの外壁が殺風景だったため、早く育つツタで緑を増やすことにしました。
起工の前に何が進んでいたのか?記録から読める3つの準備
甲子園の工事の記録をたどると、起工より前から進んでいた準備がいくつも見つかります。用地の買い取り、球場の構想、そして大林組からの設計図と見積書です。
先にお断りしておくと、大林組が公開している社史では、甲子園の工程や作業員の数、工法についての詳しい記述は見当たりませんでした。ここで紹介するのは、施主側と団体の資料から読み取れる準備の流れです。「これが短い工期の理由だった」と言い切れる資料はありません。
準備1:土地は建設を決める前の年から手当てしていた
甲子園の土地は、兵庫県が武庫川を改修した際に廃止した支流2本(枝川と申川)の跡地で、これを阪神電鉄が買い取りました。日本高野連の記事によると、この土地が売りに出されたのは1922年で、三崎はその年のうちに買い取りの交渉を始めています。建設を正式に決めた1923年11月の、前の年のことです。
準備2:10年以上前から球場の姿を考えていた
三崎は1908年の手帳に、ダイヤモンドの略図と球場の大きさのメモを書き残していました。甲子園の歴史を調べている武庫川女子大学名誉教授の丸山健夫さんは、日本高野連の記事で「いよいよ新球場が必要だとなったとき、用地はすでに購入済み。三崎の頭の中には具体的なイメージもあった。自信をもって『来年、出来ます』と言えた」と話しています。
準備3:起工式の1か月あまり前に、大林組が設計図と見積書を届けていた
三崎は英語で日記をつけていました。その1924年2月6日のページに、「大林組の人が『the Koshiyen ground』の設計図と見積書を持ってきた」と書かれています。3月11日の起工式の34日前です。
施主の阪神電鉄の側にも、設計を担当する技師として、入社して2年ほどの野田誠三がいました。発注者の側にも図面の分かる担当者がいて、施工する大林組と向き合っていたことになります。
今の建設会社に置き換えると
短い工期を求められたときほど、着工前に「何が決まっていて、何が決まっていないか」を施主と確かめておきたいところです。甲子園の記録は、発注する側と施工する側が、起工のずっと前から動き出していた例として読めます。
こうした段取りの力は、外からはなかなか見えません。工期どおりに仕上げた現場を、着工から完成までの流れがわかる形で施工実績に残しておくと、初めての取引先にも伝わりやすくなります。
100年後も甲子園は大林組が手がけている
大林組と甲子園の関係は、1924年で終わりではありません(大林組そのものの歩みは大林組の歴史と代表建築物で紹介しています)。甲子園歴史館によると、1938年には球場でスキージャンプの大会が開かれ、そのジャンプ台も大林組が施工しました。2000年代以降の大きな工事では、次の2つがあります。
年に5か月しか使えないリニューアル工事
2007年から2010年のリニューアルは、大林組が設計と施工を担当しました。大林組120年史によると、野球のシーズン中は試合が優先されるため、工事に使えたのは年に5か月のシーズンオフだけで、3回のオフに分けて進めています。
「100年前の施工者」に任された大銀傘
完成時に内野席を覆っていた鉄傘は、1929年にできたアルプススタンドの上にも1931年に広げられ、外野以外のスタンドを覆う「大鉄傘」になりました。しかし1943年、戦時中の金属供出ですべて取り外されます。戦後の1951年に屋根が復活し、このときから「銀傘」と呼ばれるようになります。
いま阪神が進めているのが、この銀傘を再びアルプススタンドまで広げる「大銀傘」の計画です。2023年7月の発表では、「100年前の施工者でもある株式会社大林組に設計業務を委託」したと書いています。2024年8月の発表では、施工会社も大林組で、工事費は約150億円、2028年3月の竣工予定とされました。本工事は、2025年秋から野球のシーズンオフだけを使って進める3か年計画です。
よくある質問
甲子園球場を設計したのは誰ですか?
資料によって答えが分かれます。阪神側の資料では阪神電鉄の技師・野田誠三、大林組の社史の写真説明では「設計 大林組」です。施工が大林組であることは、どの資料でも同じです。
大林組の創業者・大林芳五郎は、甲子園の工事に関わりましたか?
関わっていません。芳五郎は1916年1月24日に亡くなっており、甲子園の工事はその8年後です。当時の大林組の社長は、芳五郎のあとを継いだ2代目の大林義雄でした。芳五郎については大林組の創業者・大林芳五郎で紹介しています。
「甲子園」という名前の由来は何ですか?
球場ができた1924年が、干支の「甲(きのえ)」と「子(ね)」が重なる縁起のよい年だったことに由来します。この付近一帯が「甲子園」、球場が「甲子園大運動場」と名付けられました。
甲子園は本当に「日本初の本格的野球場」だったのですか?
大林組は甲子園を「日本初の本格的野球場」と紹介しており、BELCA賞の紹介文にも「日本で初めての本格的な野球場」とあります。また、大林組の社史は、完成当時に「東洋最大と称された」と書いています。「日本初」は今の大林組やBELCA賞の紹介文の表現で、「東洋最大」は当時そう呼ばれていたという社史の記述です。
まとめ:甲子園は「4か月半の現場」と「その前の準備」で語れる
甲子園球場は、阪神電鉄の発注で大林組が施工し、1924年3月11日の起工式から8月1日の竣工式まで、4か月半ほどで完成しました。当時の記録では実際の起工は3月16日、竣工は7月31日で、こちらで数えても4か月半ほどです。
工事が始まる前には、建設を決める前の年からの土地の手当てや、10年以上前からの構想があり、起工式の1か月あまり前には大林組の設計図と見積書が施主に届いていました。そして100年後の今も、大林組は大銀傘の工事で甲子園に関わり続けています。
雑談で話すなら、「甲子園は大林組が4か月半ほどで建てた。資材は牛車で運んでいた」「100年後の大銀傘も、同じ大林組がやっている」の2つが使いやすいはずです。

