鹿島建設の創業者・鹿島岩吉とは?江戸の大工店から始まった180年の原点

鹿島建設の創業者鹿島岩吉とは?

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1840年、江戸・中橋正木町で1人の大工が独立しました。名は鹿島岩吉。のちに従業員8,959名(2026年3月末・単体)、連結売上高3兆672億円(2026年3月期)のスーパーゼネコン、鹿島建設の”最初の1人”です。

所沢生まれの1人の職人は、どのようにして鹿島建設の180年の歴史の原点をつくったのでしょうか。所沢の農村から幕末の横浜、そして明治9年の隠居まで、残された記録から岩吉の道のりを追います。

鹿島岩吉とは——1840年、江戸・中橋正木町で独立した1人の大工

鹿島岩吉は、1816年(文化13年・別説として1818年)に武蔵国入間郡上新井(現在の埼玉県所沢市)で生まれました。父は鹿島市左衛門で、岩吉は次男です。

江戸に出て四谷の大工のもとで修業を積んだのち、天保11年(1840年)に江戸中橋正木町(現・東京都中央区京橋あたり)で独立しました。屋号は「大岩」で、「大工の岩吉」を縮めた呼び名ではないかとされます。

この独立が、後の鹿島建設の起点となりました。岩吉が興した1つの大工店は、幕末の横浜開港、明治の鉄道敷設、戦後の高度成長という3つの時代の波を乗り越え、現在は連結売上3兆円超のスーパーゼネコンへと発展しています。

岩吉は明治9年(1876年)に隠居し、鹿島の名は長男の岩蔵に引き継がれました。1885年(明治18年)4月、その生涯を閉じています。

所沢から江戸へ——修業と独立の道のり

武蔵国上新井に生まれる

岩吉が生まれた武蔵国入間郡上新井は、江戸の西方に位置する農村地帯でした。現在の埼玉県所沢市の一部にあたります。父・鹿島市左衛門のもとで岩吉は次男として育ち、やがて江戸へ出て手に職をつける道を選びます。

当時の江戸は、参勤交代で全国から集まる武士、商売でにぎわう町人、そして寺社の建て替えや修理の仕事が絶えない大都市でした。地方から出てきた若者にとって、大工修業は生計を立てる有力な進路の1つでした。

四谷での大工修業

江戸に出た岩吉は、四谷の大工のもとで修業を始めました。修業期間の詳しい記録は残っていませんが、独立して自分の店を持つには、棟梁として仕事を仕切れる技量が求められました。

なお、鹿島の起源を「宮大工」とする説を目にすることがありますが、記録で確認できるのは「四谷の大工で修業」までで、宮大工と明記した資料は現時点で見当たりません。記録に忠実に表現するなら、岩吉は町大工です。

中橋正木町で「大岩」を掲げる

天保11年(1840年)、修業を終えた岩吉は江戸中橋正木町(現在の東京都中央区京橋あたり)で自らの大工店を開きます。中橋正木町を選んだのは、大名屋敷が近く便利だったためと伝わっています。

屋号「大岩」の由来は、先に触れたとおり「大工の岩吉」を縮めた呼び名ではないかとされます。当時の江戸には数多くの大工が競って仕事を取り合っており、屋号は店の顔になる看板でした。

独立後の岩吉は、大名屋敷の出入り大工として仕事を広げていきます。取引先には水戸徳川家、桑名藩松平越中守、古河藩土井大炊守などの名が並びます。

桑名藩上屋敷(敷地9,301坪)や古河藩上屋敷(同4,533坪)といった大きな大名屋敷にも出入りしていました。当時は幕末に向かう時期で、諸藩は江戸屋敷の建て直しや修理の仕事を絶えず抱えていました。

幕末の転機——横浜と英一番館

開港と英一番館

岩吉の事業に転機が訪れたのは、幕末です。安政5年(1858年)に日米修好通商条約が結ばれ、翌安政6年(1859年)に横浜が開港しました。開港と同時に、居留地に事務所を構えたい外国商人たちから商館建設の依頼が生まれます。

しかし江戸の大工の多くは、西洋人相手の仕事を避けていました。言葉が通じない壁もあり、進出のハードルは低くありませんでした。この状況で、岩吉は横浜に進出し、西洋人相手の商館建設を手がけることを選びます。

1859年末から1860年(万延元年)ごろ、岩吉は英一番館を手がけました。イギリスのジャーディン・マセソン商会の横浜店(1870年秋に支店へ昇格)で、横浜居留地に新築された初期の外国商館です。

大名屋敷の出入り大工から、居留地の洋館建築の担い手へ。岩吉の事業は明確に舵を切りました。英一番館の建築的な詳細やその後の受注展開は鹿島建設の180年の歴史で解説しています。

「洋館の鹿島」への道

英一番館の工事の実績により、岩吉の仕事ぶりは居留地に事務所を構えようとする外国商人たちに知れ渡ります。以降、鹿島は洋館建築の受注を次々と重ね、業界では「洋館の鹿島」と呼ばれるようになりました。

明治7年(1874年)には鹿島にとって初めてのれんが造工事となる王子の抄紙会社工場(後の王子製紙)を、長男の岩蔵とともに着工しました(竣工は翌1875年)。岩吉が横浜で切り開いた洋館建築の流れは、次の世代へと受け継がれていきました。

岩蔵へ——明治9年の隠居

明治9年(1876年)、岩吉は隠居しました。事業は長男の岩蔵が引き継ぎます。岩蔵は鹿島の公式資料でも岩吉の「息子」「長男」「嫡男」と記されている人物です。

隠居後の岩吉の動きは詳しく残されていません。ただし、明治7年の抄紙会社工場を岩吉・岩蔵の親子で請け負った記録から、明治9年の隠居前から岩蔵が用地選定や工事請負に深く関わっていたことがわかります。

明治13年(1880年)3月、鹿島組が正式に組織化され、岩蔵が初代組長に就任しました。同時に本店を横浜から東京へ移し、鉄道の請負へと事業を転換しています。鹿島は洋館の時代から鉄道の時代へと事業の中心を移していきました。

1885年(明治18年)4月、岩吉はその生涯を閉じました。1人の大工として独立した所沢生まれの職人が、後に180年以上続く企業グループの原点となる店を残したのです。

よくある質問

Q1: 鹿島岩吉と鹿島守之助はどんな関係ですか?

鹿島守之助(1896-1975年)は鹿島建設の中興の祖と呼ばれる4代目社長で、婿養子として鹿島家に入った人物です。

Q2: 鹿島は宮大工から始まったのですか?

岩吉が四谷で大工修業を積んだことは記録で確認できますが、宮大工と明記した史料は現時点では見当たりません。史料に忠実に表現するなら、岩吉は町大工です。

Q3: 岩吉の直系子孫が今も鹿島建設を継いでいるのですか?

岩吉の後は長男の岩蔵が事業を引き継ぎました。以降の代替わりの中には、婿養子として鹿島家に入った経営者もいます(4代社長・鹿島守之助など)。

まとめ

所沢の農村に生まれた鹿島岩吉は、江戸に出て四谷で大工修業を積み、天保11年に中橋正木町で独立しました。屋号「大岩」を掲げ、大名屋敷の出入り大工として仕事を広げた岩吉は、幕末の横浜開港を機に洋館建築へと進出しました。英一番館を皮切りに洋館建築を重ね、「洋館の鹿島」として知られるようになります。

明治9年に隠居し、長男の岩蔵に事業を引き継いだ岩吉は、1つの大工店を残しました。その店が180年以上を経て、連結売上3兆円を超えるスーパーゼネコンへと発展しています。所沢の少年が始めた1軒の大工店が、いまも鹿島建設グループの原点として残っています。

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