鹿島守之助とは?外交官から4代目社長になり戦後の鹿島を作った人物

鹿島守之助とは?

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外交官・経営者・政治家。鹿島守之助(1896-1975年)は、この3つの職業を経験した珍しい経歴の人物です。

外務省の駐独大使館で欧州統合論に触れた1人の外交官が、なぜ戦後の鹿島建設を作った経営者になったのでしょうか。

守之助は鹿島建設180年の歩みのなかで中興の祖と呼ばれる4代目社長にあたります。

この記事では、外交官として過ごした10年、社長として率いた19年、そして政治家・思想家としての晩年をたどって、守之助の3つの職業を追います。

鹿島守之助——外交官・経営者・政治家の3つの職業を歩んだ人物

鹿島守之助は、1896年(明治29年)2月2日に兵庫県で生まれました。1920年(大正9年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、外務省に入省します。駐独大使館・駐伊大使館などで外交官として働きました。

1927年、鹿島組組長・鹿島精一の長女・卯女と結婚し、鹿島家に婿養子として入ります。1930年に外務省を退官後、政界進出を試みたのち学究生活を経て、1936年に鹿島組の取締役に就任、1938年(昭和13年)には4代目社長へ就任しました。

戦後の1949年にはゼネコン初となる技術研究所を設立し、鹿島建設の技術基盤を作ります。

1957年には国務大臣(北海道開発庁長官)に就任し、社長を退いて会長となりました。参議院議員としても3期を務めます。議員を退いたあとは外交史の研究と著述に取り組みました。1975年(昭和50年)12月3日、その生涯を閉じました。

外交官時代——駐独から欧州統合論との出会いへ

兵庫県から東京帝国大学へ

守之助は1896年(明治29年)2月2日、兵庫県で生まれました。地方の家に生まれた青年が、明治の学制のなかで最高峰の東京帝国大学へ進学するのは、当時の日本では限られた人だけが進める道でした。

1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業します。同じ年に外務省へ入省しました。当時の外務省は、日露戦争後に国際政治の舞台に立ち始めた日本にとって、優秀な若手が集まる官庁の1つでした。

駐独・駐伊大使館での日々とカレルギーとの出会い

守之助が外交官として赴任したのは、ドイツとイタリアです。駐独大使館では、第一次世界大戦後の欧州が、次の戦争を避けようと新しい国際秩序を探っていた時期を間近で見ていました。

このドイツ時代に守之助が出会ったのが、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーです。カレルギーは1923年に『パン・ヨーロッパ』を発表し、欧州各国を1つに統合して恒久平和を作ろうと主張した思想家でした。守之助はこの欧州統合論に強く影響を受けます。

その後、駐伊大使館での勤務を経て、1930年(昭和5年)1月に外務省を退官します。10年間の外交官生活は、国際政治の仕事を身につける時間であると同時に、カレルギーの思想を日本に持ち帰るきっかけにもなりました。

鹿島家との縁

守之助が鹿島家と結ばれたのは、ドイツ勤務を終えイタリア勤務に移っていた1927年です。鹿島組組長・鹿島精一の長女・卯女と結婚し、婿養子として鹿島家に入りました。旧姓の永富から鹿島姓に変わったのはこの時です。

1930年に外務省を退官した後は、すぐに鹿島組に入ったわけではありませんでした。守之助はまず政界進出を試みて衆議院議員選挙に立候補しますが落選し、その後は学究生活を送ります。

約6年間の空白を経て、1936年に鹿島組の取締役に就任、1937年に副社長、1938年(昭和13年)に4代目社長へ就任しました。42歳での就任です。

経営者時代——戦後の鹿島を作った19年間

1938年、若き4代目社長として

守之助が社長に就いた1938年は、日中戦争が長引き、国家総動員体制に入るなかで、経営が非常に難しい時期でした。前任は義父・鹿島精一で、42歳での社長交代は、鹿島組の中では若い世代への引き継ぎでした。

戦時中、鹿島組は軍需関連の土木工事に多く関わります。守之助は経営者として、この難しい時代を引き受けます。

戦後の技術研究所設立——ゼネコン初の決断

戦後、鹿島組は1947年(昭和22年)に社名を「鹿島建設」へと変更します。守之助が下した大きな判断の1つが、1949年(昭和24年)4月の技術研究所設立でした。

鹿島建設技術研究所は、日本のゼネコンで最初に設立された自社研究機関です。前身は1945年に設立された財団法人建設技術研究所で、戦後の統制組合解散を受けて鹿島がその事業を継承しました。

守之助はその初代所長を兼任し、「不断の研究と創造が社会に進歩と繁栄をもたらす」という理念を掲げます。この決断が、後に鹿島がダム・原子力・超高層ビルで力を発揮するための土台となりました。

技術研究所のその後の展開と、そこから生まれた鹿島の得意分野については、鹿島建設の得意分野で詳しく解説しています。

1957年、社長退任と会長就任

守之助が社長を退いたのは1957年(昭和32年)です。この年、守之助は岸信介内閣の国務大臣(北海道開発庁長官)に就き、経営の現場を離れて政治の世界へ移ります。社長職は妻の鹿島卯女が引き継ぎ、守之助自身は会長へと退きました。

1938年から1957年までの19年間、守之助は社長として、戦時中の経営から戦後の復興、そして技術面の土台づくりまでを主導しました。

妻の卯女も1941年に監査役となり、二人三脚で経営を支えます。「戦後の鹿島を作った」と言われるのは、この19年間の経営判断があったからです。

政治家・思想家としての晩年

守之助は1953年(昭和28年)5月から1971年(昭和46年)7月まで、参議院議員を3期18年務めました。1957年に短期間だけ北海道開発庁長官を務めた以外は、議員としての仕事と、思想・執筆の活動が晩年の中心でした。

思想面で大きかったのは、駐独時代に出会ったカレルギーの著作を日本語に紹介したことです。ドイツから帰国後の1927年(昭和2年)にはカレルギーの著作を『汎ヨーロッパ』として日本語版を初刊行し、後年の1961年(昭和36年)にも『パン・ヨーロッパ』として新版を出しました。

1970年から1971年にかけては、既訳や共同訳・講演記録なども再編集して全9巻の『クーデンホーフ・カレルギー全集』刊行を主導します。外交官時代・経営者時代・政治家時代を通じて、欧州統合論への関心はずっと続いていました。

1966年(昭和41年)7月、守之助は鹿島平和研究所を創設しました。1970年から1974年にかけては、本巻34巻・別巻4巻の『日本外交史』を編纂・監修しました。

学界からも評価を受けました。1959年(昭和34年)に日本学士院賞を受賞し、1973年(昭和48年)には文化功労者に選ばれます。1975年12月3日に亡くなった際は、勲一等旭日大綬章・正三位を授かりました。

妻の卯女は、鹿島学術振興財団の設立趣意書のなかで「亡夫鹿島守之助は晩年よく『運命の神は私に全く異なる三つの事業の遂行を課した』と言っていた」と記しています。三つの事業とは「学者としての活動と、企業経営者としての活動と、政治活動との三つの分野」を指しています。

よくある質問

Q1: なぜ守之助は戦後の鹿島にとって重要な人物なのですか?

1949年にゼネコン初の技術研究所を設立し、戦後の鹿島の技術基盤を作ったからです。この技術系譜は現在のダム・原子力・超高層の強みに繋がっています。

Q2: 鹿島岩吉との関係は?

守之助は4代目社長、鹿島岩吉は初代創業者です。岩吉の実子・岩蔵が2代目、岩蔵の長女・糸子と結婚して婿養子となった精一が3代目、さらに精一の長女・卯女と結婚した婿養子の守之助が4代目を継ぎました。3代・精一と4代・守之助はいずれも婿養子として鹿島家に入った経営者です。

Q3: パン・ヨーロッパ論とは何ですか?

リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーが1923年に発表した欧州統合の構想です。第一次世界大戦後の欧州で、各国を1つに統合することで恒久平和を作ろうという思想でした。

守之助は駐独時代にカレルギーと出会い、その思想をドイツから帰国後の1927年に『汎ヨーロッパ』として日本語版を初刊行しました。後年の1961年には『パン・ヨーロッパ』として新版も出しています。

まとめ

鹿島守之助は、外交官・経営者・政治家として3つの職業を歩んだ人物です。1920年に外務省へ入り、駐独時代にカレルギーの欧州統合論と出会います。

1930年に退官後、政界進出を試みたのち学究生活を経て、1936年に鹿島組の取締役、1938年に4代目社長へ就任しました。

戦後の1949年、ゼネコン初となる技術研究所を設立。この決断が、現在の鹿島建設の技術力の基礎を作りました。

1957年に社長を退いて会長・政治家となった後は、参議院議員としての立法活動と、カレルギーの著作の翻訳・『日本外交史』の編纂といった思想活動に打ち込みます。

妻の卯女が設立趣意書に伝える「運命の神は私に全く異なる三つの事業の遂行を課した」という守之助晩年の言葉のとおり、その生涯は3つの職業が交わる珍しい歩みでした。

守之助が土台を築いた戦後の技術力は、鹿島建設の180年余りの歴史のなかでも重要な節目となりました。

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