「大林組の創業者って、最初から建設の人じゃなかったらしいですよ」。元請けの現場や取引先との雑談で、こんな話を聞いたことはありませんか。
結論からお伝えすると、その話は本当です。大林組の創業者・大林芳五郎(おおばやし よしごろう)は、元は呉服店の番頭で、自分の店に失敗したあと東京で建設の仕事を学んだ人物です。1892年(明治25年)1月25日、27歳のときに大阪の靱(うつぼ)で「大林店」を開いたのが、大林組の始まりでした。きっかけは、阿部製紙所という工場の建設工事を落札したことです。
この記事では、大林組が公開している社史をもとに、次の3つを紹介します。
- 生まれてから創業するまでの流れ(年表つき)
- 呉服店での独立に失敗し、建設の道へ進んだいきさつ
- 無名の請負業者が信用を得て、大きな工事を任されるようになった3つのエピソード
大林芳五郎とは?1892年、大阪で「大林店」を開いた大林組の創業者
大林芳五郎は、1864年に大阪の乾物問屋に生まれ、呉服店での失敗と東京での修業を経て、1892年に「大林店」を開いた人物です。この店が1904年に名前を「大林組」に改め、今の大林組につながっています。
| 年 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1864年9月14日 | 0歳 | 大阪・靱の塩と乾物の問屋「大徳」の三男として生まれる(初めの名は由五郎) |
| 1873年10月 | 9歳 | 父・徳七が亡くなる |
| 1874年春 | 9歳 | 呉服商・麹屋(こうじや)の店に丁稚見習いとして入る |
| 1880年 | 16歳 | 三番番頭に選ばれる |
| 1882年11月 | 18歳 | 麹屋を去り、呉服の小売で独立。半年もたたずに行き詰まる |
| 1883年7月 | 18歳 | 東京の請負業者・砂崎庄次郎のもとで修業を始める |
| 1887年 | 23歳 | 大阪鉄道の工事のため、4年ぶりに大阪へ戻る |
| 1888年 | 24歳 | 呉の軍港工事を手伝ったあと、砂崎のもとを離れる |
| 1892年1月18日 | 27歳 | 阿部製紙所の工場工事を落札する |
| 1892年1月25日 | 27歳 | 「大林店」を開く(大林組の創業日) |
| 1893年10月 | 29歳 | 朝日紡績の今宮工場を、期限の3日前に完成させる |
| 1904年2月 | 39歳 | 店名を「大林組」に改める |
| 1911年2月 | 46歳 | 東京中央停車場(のちの東京駅)の工事を落札する |
| 1916年1月24日 | 51歳 | 亡くなる |
※年齢は、生年月日から計算した満年齢です。資料によって表記が違う点は、記事の後半の「よくある質問」で説明しています。
乾物問屋の三男が、なぜ建設の道へ?呉服店の奉公と独立の失敗
芳五郎の出発点は、建設業ではなく呉服店でした。父を亡くした翌年、9歳で呉服店に奉公し、16歳で番頭に選ばれるほど働きましたが、18歳で始めた自分の店は半年もたたずに行き詰まっています。
父を亡くした翌年、9歳で呉服店へ奉公に
1873年10月に父が亡くなると、翌年の春、芳五郎は学業をわずか2年でやめ、大阪・西区の呉服商、麹屋又兵衛の店に丁稚見習いとして入ります。まだ9歳でした(大林組の資料には「11歳」とする書き方もあります)。
とはいえ、家が貧しくなったからではありません。八十年史によると、実家の「大徳」はこのころまだ店を続けていて、奉公は体の弱い兄に代わって大林家を継ぐための修業でした。商家の子が、よその店で商売を学ぶのは当時よくあることだったのです。
16歳で番頭になったが、婿養子の話は断った
芳五郎は麹屋でよく働き、1880年、16歳で三番番頭に選ばれます。麹屋には「18歳になるまでは番頭にしない」という決まりがあり、それを破っての抜てきでした。主人の又兵衛は、芳五郎を娘の婿養子に迎えるつもりだったといいます。
ところが芳五郎には、ほかの家を継ぐ気がありませんでした。安定した道を捨て、1882年11月、18歳で麹屋を去ります。
呉服の小売で独立するも、半年もたたずに失敗
麹屋を出た芳五郎は、呉服の小売店を開きました。しかし不景気のあおりを受けて、半年もたたないうちにお金が回らなくなります。
最初の独立は失敗に終わりました。ここで芳五郎が選んだのが、前から望んでいた土木建築の請負業です。修業の場所には、大阪ではなく東京を選びました。百年史によると、当時の堅い家では請負業を低く見る風潮があったため、ひとまず地元の大阪を避けたのだそうです。
東京で5年間の修業——皇居・鉄道・兵舎の現場で何を学んだのか?
芳五郎は1883年7月に上京し、宮内省に出入りしていた請負業者・砂崎庄次郎のもとで修業を始めました。現場の事務から材料の知識、施主との交渉、荒っぽい職人たちをまとめる力まで、創業に必要なことをここで一通り身につけています。
入って3日目に、皇居の現場を任される
知人の紹介で砂崎のもとに入った芳五郎は、3日目にはもう皇居工事の現場で「出面係(でづらがかり)」を任されました。職人の出面(出勤)の記録に、帳簿つけやそろばんと、現場の事務全般を受け持つ係です。
百年史によると、芳五郎はこの仕事を通じて荒っぽい職人たちとの付き合い方も身につけました。人と打ち解ける力や男気、堂々とした態度で、彼らを心服させたといいます。
その後は、品川〜赤羽の鉄道工事にも加わっています。長さ約20.8kmの線路を14カ月で仕上げるという、当時としては驚くほど短い期間の工事でした。
兵舎工事で、材料と施主との交渉を学ぶ
次に向かった愛知県豊橋の兵舎工事では、材料係を任されます。材料の品質・性質・使い道・値段を覚え、現場でそれがどう使われるかを見て回りました。
百年史によると、芳五郎はこの現場で、れんが工事、石工事、大工工事、左官工事など、当時の建築工事全般をつかんだといいます。さらに、初めて施主や監督と交渉する立場も経験しました。
1885年5月に東京へ戻ると、本格的に始まった皇居の造営工事に加わりました。砂崎家の受け持ちは1887年秋にほぼ終わったため、芳五郎が関わったのは2年ほどです。それでも八十年史は、大林組が大切にしてきた材料選びと丁寧な施工は、この工事から始まったといわれると書いています。芳五郎は砂崎から、工事や技術だけでなく、人の上に立つ者としての心構えも大きく学んだと書き残しました。
決闘状を送ってきた職人たちを、1人で説得した
1887年、大阪鉄道の工事を引き受けていた水沢新太郎という請負業者が、芳五郎の力量を聞きつけて声をかけます。芳五郎は4年ぶりに大阪へ戻りました。
八十年史には、この工事の難所・亀ノ瀬のトンネル工事で起きた出来事が載っています。発端は、工区(受け持ち区域)の境目をめぐる争いでした。芳五郎が測量をして境目を決めたところ、丹波源という土工(土木工事の作業員)がそれに従わず、仕事を放り出して決闘状を送ってきたのです。
芳五郎は指定された場所へ1人で出向きました。武器を手にした数十人の土工に囲まれながら、最後には彼らを説得したといいます。もっとも八十年史は、芳五郎の勇気に加えて、この現場で偶然再会した麹屋時代の旧友・野口栄次郎の後押しもあったと書いています。野口は、関西一円で名の知れた親分でした。
1888年夏には、水沢の下で広島県・呉の軍港工事を手伝いました。約3カ月後、部下の作業員と技師長のもめごとをきっかけに東京へ戻り、これを機に砂崎のもとからも離れています。ただし、砂崎家との付き合いは生涯続きました。
1892年1月25日、阿部製紙所の落札から「大林店」が始まった
大阪に戻った芳五郎は、4年ほどの準備期間を経て、1892年1月18日に阿部製紙所の工場工事を落札しました。その7日後の1月25日を創業日と決め、「大林店」を開いています。これが大林組の創業です。
独立までの4年間は、どう過ごしたのか?
砂崎のもとを離れてから創業するまで、芳五郎には4年ほどの準備期間がありました。ただ、この4年間に何をしていたのかは、はっきり分かっていません。八十年史によると、伝記『大林芳五郎伝』には、知り合いから頼まれた小さな請負や下請けの仕事にとどまっていた、と書かれているそうです。
最初の仕事は、請負金額3万6,000円の工場工事
転機になったのが、近江(今の滋賀県)出身の豪商・阿部家が経営する阿部製紙所の工場新設工事です。工事の中身は、工場の敷地の整地と、れんが造りの工場、石造りの倉庫10棟の建築でした。請負金額は3万6,000円です。八十年史は、当時の米の値段をもとに、刊行した1972年のお金で1億数千万円にあたると計算しています。大林組は今も、この工事の落札から7日後の1月25日を創業の日としています。
元手は手持ち1,000円と、父の友人の5,000円
大きな工事を始めるには、少なくとも1万円の元手が必要でした。ところが芳五郎の手元には、1,000円しかありません。
そこで力を貸したのが、亡き父・徳七の友人だった片山和助です。片山が出した5,000円に、母・美喜の蓄えと自分の1,000円を合わせたものが、大林店の元手になりました。
店を構えたのは、大阪市西区靱南通4丁目(今の西区西本町2丁目)です。店と住まいを兼ねた、小さな出発でした。実際、創業から3年ほどは、仕事は1年に1件ほどしかなかったといいます。
無名の請負業者は、どうやって信用を得たのか?3つのエピソード
芳五郎が信用を得た理由は、値切らない支払い、自分から申し出た違約金、そして5つの信条にあります。どれも約束を守る姿勢を形にしたもので、その積み重ねが大阪を代表する大工事や、東京駅の受注につながりました。
エピソード1:材木の代金は、1銭も値切らず現金で払った
資金の面でも芳五郎を助けたのが、大阪・堀江の材木商、佐々木伊兵衛です。八十年史によると、佐々木の目にとまったのは芳五郎の買い方でした。材木の値段は1銭、2銭の端数も値切らずに現金で払います。そのかわり、品質のチェックはとても厳しかったそうです。しかも、店の番頭や丁稚に対しても偉そうな態度をとりませんでした。
エピソード2:遅れたら1日1,000円の違約金を、自分から申し出た
1893年、芳五郎は朝日紡績の今宮工場(大阪)の工事を引き受けます。請負額は4万3,000円で、追加工事を含めると総額8万3,000円になった大きな仕事でした。
契約上の工期は3月2日から10月15日まで。ただ、会社側には、まだ実績のない若い請負業者に任せて大丈夫かという不安がありました。そこで芳五郎は、工事が1日遅れるごとに1,000円の違約金を払うと、自分から申し出ます。1日1,000円は、芳五郎が創業のときに自分で用意できたお金と同じ額です。43日遅れれば、請負額の4万3,000円がまるごと違約金で消える計算で、かなり思い切った約束でした。これに対して会社側も、期限より早く仕上がれば1日2,000円の賞金を出すと約束しました。
結果は、期限より3日早い10月12日の完成でした。先方の社長は約束どおり賞金を出しましたが、芳五郎はそれをそのまま、落成のお祝いとして朝日紡績に贈っています。百年史は、この出来事が大林の名を広めたと伝えています。
エピソード3:5つの信条を掲げ、そのとおりに仕事をした
芳五郎がいつも掲げていた信条が、次の5つです。
| 信条 | 意味 |
|---|---|
| 施工入念 | ていねいに工事をする |
| 責任遂行 | 引き受けた責任を最後まで果たす |
| 誠実黽勉(びんべん) | まじめに、よく働く |
| 期限確守 | 期限を必ず守る |
| 安価提供 | 手ごろな価格で提供する |
130年史は、この5つが文字どおり実践された結果、創業まもない時期に大阪市築港工事や第五回内国勧業博覧会など、当時の大阪を代表する大工事を受注できたと説明しています。同じ資本の系列から続けて仕事を頼まれていたことも、信用を着実に積んでいた証拠として挙げられています。
大阪築港工事に加わったのは1898年、博覧会の施設工事を受注したのは1901年です。
そして1911年、東京中央停車場(のちの東京駅)の工事の入札で、関西の業者からただ1社、大林組が指名されます。八十年史によると、第五回内国勧業博覧会の工事の実績が認められたためだといわれています。1911年2月の最初の入札で落札し、翌1912年に4回に分けて行われた残りの工事の入札も、すべて大林組が取りました。大阪で積み上げた信用が、東京の大仕事にまで届いた形です。東京駅から先の大林組の歩みは、大林組の歴史と代表建築物で紹介しています。
今の建設会社に置き換えると
芳五郎の信用は、材木商や施主との1回1回の取引で積み重なっていきました。今は、初めての取引先が、会う前に会社のホームページを見ておくこともあります。工期を守った現場や、施主から喜ばれた仕事を、施工実績として見せられる形で残しておくと、「約束を守る会社だ」という信用が初対面の相手にも伝わりやすくなります。
よくある質問
大林店と大林組の違いは何ですか?
同じ会社です。1892年に「大林店」として創業し、1904年2月に店名を「大林組」に改めました。
大林芳五郎は何歳で大林組を創業しましたか?
生年月日(1864年9月14日)から計算すると、創業日の1892年1月25日は満27歳です。大林組の資料には、28歳・29歳とする書き方もあります。
大林芳五郎はいつ亡くなりましたか?
1916年(大正5年)1月24日です。生年月日から計算すると満51歳でした(大林組の資料には、52歳・53歳とする表記もあります)。あとを継いだのは長男の大林義雄で、当時まだ22歳の大学生でした。
まとめ——大林芳五郎は「失敗」と「信用」で語れる創業者
大林芳五郎は、呉服店での独立に失敗したあと東京で建設の仕事を一から学び、1892年1月25日、27歳で大阪・靱に「大林店」を開いた人物です。自分で用意できたお金はわずか1,000円で、父の友人の出資と母の蓄えに支えられての出発でしたが、値切らない支払いや、自分から申し出た違約金といった「約束を守る」姿勢で信用を集め、東京駅の工事まで任されるようになりました。
雑談で話すなら、「大林組の創業者は、最初の商売で失敗した元呉服屋の番頭さん」「遅れたら1日1,000円払いますと自分から言って、3日早く仕上げた」の2つが使いやすいはずです。

