1960年代初頭まで、日本の建物の高さは原則として31メートル(100尺)が上限でした。この壁を大きく越えて建ったのが、地上36階・軒高147メートルの霞が関ビルです。
100メートルを超える高層ビルとしては日本初で、鹿島建設の歴史と代表建築物のなかでも大きな節目となる建物です。
147メートルはどうやって実現したのか、そこには建築基準法の改正と、武藤清らによる柔構造の実現という2つの転換点がありました。
霞が関ビルとは——1968年竣工、地上36階・軒高147メートル
霞が関ビル(正式名称:霞が関ビルディング)は、1968年(昭和43年)4月12日に竣工した高層オフィスビルです。
所在地は東京都千代田区霞が関3丁目2番5号で、地上36階・地下3階建て、軒高(屋根の下端までの高さ)は147メートル、塔屋(屋上の付属構造物)を含めると156メートルに達し、延床面積は約15万平方メートルにおよびます。
1964年開業のホテルニューオータニ本館(高さ72メートル・17階)が31メートル制限を超える建物としては先行しますが、147メートルという高さは日本で前例のない規模でした。
以降、鹿島建設は「超高層の鹿島」と呼ばれる位置づけを得て、日本の高層ビル建設の主要な担い手の1社となっていきます。以降は通称の「霞が関ビル」で通します。
建てた4者——施主・設計・施工・技術委員会
霞が関ビルは1社の単独プロジェクトではなく、施主・設計・施工・技術委員会の4者が動いた共同事業として実現しました。
施主——三井不動産と一般社団法人霞会館の共同発注
事業主は三井不動産株式会社と一般社団法人霞会館の共同発注です。三井不動産が敷地の所有者だった霞会館に対して共同事業を提案し、実現しました。
霞会館は明治7年(1874年)に「華族會舘」として創立され、1947年の華族制度廃止を受けて現在の名称に改称された社団法人です。
旧皇族・華族の親睦団体で、霞が関の敷地を保有していました。竣工後の1968年からは霞会館の本館が霞が関ビル34階に置かれています。
設計——三井不動産と山下寿郎設計事務所の共同
設計は山下寿郎設計事務所(現・株式会社山下設計)が担当し、三井不動産と共同で設計監理を行いました。
山下寿郎(1888-1983年)は山形県米沢市生まれの建築家で、東京帝国大学工科大学建築学科を1912年に卒業、1928年に山下寿郎建築事務所を創立した昭和期の代表的な設計者の1人です。
施工——鹿島建設と三井建設の共同企業体
施工は鹿島建設と三井建設の共同企業体(JV)が担当しました。三井建設は2003年に住友建設と合併し、現在の三井住友建設になっています。
鹿島にとって霞が関ビルは、その後の超高層事業の起点となった案件です。鹿島の社内資料では「技術研究所をはじめ当社の総力を結集した記念碑」と位置づけられています。
技術委員会——霞が関三井ビル高層化委員会
超高層化に伴う技術検討のために、専用の技術委員会「霞が関三井ビル高層化委員会」が組成されました。指導にあたったのが東京大学名誉教授の武藤清博士です。
なぜ147メートルが建てられたか——建築基準法改正と柔構造という考え方
147メートルの霞が関ビルが1968年に実現した背景には、2つの転換点があります。1つは建築基準法の改正、もう1つは柔構造を大規模建築で実現したことです。
特定街区制度と1963年改正が147メートルを可能にした
それまでの建築基準法では、大正時代の市街地建築物法以来、住居地域は20メートル、その他の地域は原則として31メートル(100尺)の絶対高さ制限がありました。
霞が関地区も原則としてこの上限のもとで計画されてきましたが、1961年改正で新設された「特定街区」制度と、1963年改正で新設された容積地区制度(同時に特定街区制度も拡充)により、超高層化への道が開かれます。
実際に霞が関ビルを可能にしたのは、1964年8月26日に「霞ケ関3丁目特定街区」として都市計画決定され、霞が関ビル側に最高高さ147メートル・容積率910パーセントが定められたことです。
法改正の背景には、戦後の都市への人口集中と、限られた土地を高度に利用したい都市側の需要があります。
ただし、法律の壁が下がっただけでは超高層ビルは建ちません。地震国の日本で147メートルの建物を建てるには、地震にどう耐えるかという技術的な柱が必要でした。
武藤清と柔構造
構造設計を率いたのが武藤清(1903-1989年)です。茨城県取手市に生まれ、1925年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業、1935年に東京帝国大学教授に就任しました。霞が関ビル関与時は東京大学名誉教授で、鹿島建設の副社長も務めていました。
柔構造とは、地震のときに建物をあえて「ゆっくり揺らす」ことで衝撃を受け流す考え方です。建物を堅く作って地震の力に真正面から耐える従来の「剛構造」とは逆の発想で、竹が風でしなうように建物を揺らして地震のエネルギーを受け流します。
技術的には、建物全体の剛性を適切に抑えて固有周期(建物がゆっくり揺れる時間の長さ)を長くすることで、地震時に建物へ作用する力を小さくする仕組みです。
なお、大地震時に必要な「変形しても壊れない能力」の確保は、剛性の設計とは別の要素として用意されます。
柔構造そのものは、1920年代の関東大震災後に眞島健三郎らが提唱した「建物は振動に対してゆっくり揺れる柔軟な構造にした方が耐震性上優れる」という発想が源流です。
当時、武藤清は佐野利器らとともに剛構造の立場からこの発想に反論する側でしたが、戦後に強震計SMACを開発してデータを積み上げ、コンピュータ解析を経て「配慮の行き届いたフレキシブルな超高層ビルほど地震には安全」との考えに移りました。
霞が関ビルは、武藤清がこの柔構造を大規模な超高層建築で本格的に実現した先例のないプロジェクトです。
当初は9階建てで計画されていた建物が、武藤清らの検討を経て16階、24階、30階、32階と段階的に高層化され、1964年に36階建てで決まりました。
技術基盤——鹿島の背景
鹿島は1949年設立の鹿島技術研究所(KaTRI)を土台に、大規模建築で必要になる構造解析・材料管理の技術を積み上げていました。技術研究所を含む鹿島の総力が霞が関ビルへの参画を可能にしています。
竣工後——日本の超高層時代の起点として
霞が関ビル竣工後、日本の超高層ビル建設は本格化していきます。鹿島は「超高層の鹿島」と呼ばれる位置づけを得て、その後の超高層分野の主要プレーヤーの1社となりました。
前例のない技術投資は、4代目社長・鹿島守之助の時代から続く長期投資の延長線上にあります。守之助は1949年に鹿島技術研究所を設立しました。
よくある質問
Q1: 霞が関ビルの高さは何メートルですか?
軒高147メートル、塔屋を含めて156メートルの表記があります。地上36階・地下3階建て、延床面積は約15万平方メートルです。
Q2: 霞が関ビルは誰が建てたのですか?
事業主は三井不動産と一般社団法人霞会館の共同発注、設計は三井不動産と山下寿郎設計事務所(現・山下設計)の共同で設計監理、施工は鹿島建設と三井建設(現・三井住友建設)の共同企業体(JV)が担当しました。
技術検討には「霞が関三井ビル高層化委員会」が加わり、東京大学名誉教授・武藤清が指導しています。
Q3: 「日本初の超高層ビル」と呼ばれる根拠は?
1968年竣工時、地上36階・軒高147メートルという規模は、日本で初めて100メートルを超える高層ビルでした(1964年開業のホテルニューオータニ本館が31メートル制限を超える建物として先行していますが、100メートル超は霞が関ビルが最初です)。
武藤清の柔構造を大規模建築で本格的に具現化した先駆的な事例でもあり、「日本初の超高層ビル」と位置づけられます。
まとめ——法規制と技術の転換点に立った建物
霞が関ビルは、1964年の「霞ケ関3丁目特定街区」の都市計画決定で高層化が認められた時期に、武藤清が柔構造を大規模建築で実現することでできた建物です。
三井不動産と霞会館の共同発注、三井不動産と山下寿郎設計事務所の共同設計、そして鹿島+三井建設のJVによる施工です。この4者が動いた共同事業だったからこそ、前例のない147メートルが1968年に成立しました。
法規制の変化、技術の転換点、そして4者の共同事業です。この3つが重なった場所に建ったのが霞が関ビルであり、鹿島建設の180年余りの歴史の中でも節目となるプロジェクトです。

