毎年、新年の仕事始めの日、清水建設の本社では、社員自らが手斧(ちょうな)を振るう儀式が今も続いています。
「手斧始め」とは、工事の安全と円滑な進行を祈る伝統的な建築儀式で、江戸の大工店から始まった清水220年のDNAが、令和の本社で生きている証拠です。
この記事では、業界人として押さえておきたい清水建設の220年を、初代喜助・二代目喜助・渋沢栄一という3人の物語を中心に整理しました。
清水建設とは——スーパーゼネコン5社中、2番目に古い220年の老舗
清水建設(しみずけんせつ)は、いわゆる「スーパーゼネコン」5社の一角です。5社とは、鹿島建設・大成建設・清水建設・大林組・竹中工務店を指します。
この中で清水は、1804年(文化元年)の創業。竹中工務店(1610年)に次ぐ2番目の古株で、鹿島建設(1840年)よりも36年先行しています。江戸時代に創業した会社は5社中3社ですが、そのなかでも清水は220年を超える老舗です。
得意分野を一言でまとめると、伝統的な社寺建築・免震・環境・エネルギーと医療建築・LNGタンク(液化天然ガスを貯蔵する大型タンク)です。江戸の大工店から始まった建築の技を、現代まで途切れさせずに引き継いできた会社と言えます。
会社の規模感を数字で見ておくと、2025年度の連結売上高は2兆578億円。従業員数は単体で1万1,434人、連結で2万2,278人。
資本金は743億円あまり、国内拠点は47都道府県に75ヵ所を構えています。本社は東京都中央区京橋にあります。
社長は2025年に就任した新村達也(しんむらたつや)氏。歴代14代目の社長で、前任は井上和幸氏(13代目、2016〜2025年)が務めていました。
今も続く「手斧始め」——江戸の大工店から続く建築のDNA
清水建設の会社としての性格を、一つのシーンで語れる儀式があります。手斧始め(ちょうなはじめ)です。
毎年、新年の仕事始めに、東京・京橋の本社で清水建設は手斧始めを執り行っています。工事の安全と円滑な進行を祈る伝統的な建築儀式で、社員自らが手斧を手に取って所作を演じます。
清水220年の起点は、江戸神田で腕を磨いた大工の家業でした。この儀式は、そのルーツと現代の会社をつなぐ細くて確かな線です。
江戸の大工町のなかで、火事や地震のたびに大工の腕が試されるという過酷な競争環境を、清水は220年間くぐり抜けてきました。
時代が変わっても、社寺建築の伝統は途切れず、現代でも本社の仕事始めで手斧が振るわれる——これは業界内でもよく話題になる、清水らしいエピソードです。
江戸の大工店から続いてきた建築のDNAは、後年の代表作にも姿を変えて残ります。戦後の1958年、太平洋戦争で焼失した浅草寺本堂の戦後再建を清水が担ったのは、社寺建築の系譜の延長線上でした。
220年を動かした3人の物語
清水建設の220年は、大きな節目を作った3人——初代喜助・二代目喜助・渋沢栄一——を軸に見ると流れがつかみやすくなります。江戸の大工店から近代企業への転換を、この3人が引っ張りました。
初代喜助の時代(1804〜1859)——越中富山から江戸へ
始まりは1804年(文化元年)。越中国婦負郡小羽村(現在の富山県富山市)出身の初代清水喜助が、江戸・神田鍛冶町で大工として独立したのが、清水建設のスタートです。屋号は「清水屋」でした。
喜助はこのとき21歳、腕を頼りに江戸で身を立てようとした地方出身の若い大工でした。
当時の江戸は、火事や地震のたびに大工の腕が試される街です。無数の大工が競って仕事を取り合うなかで、喜助は着実に信用を積み上げ、1859年に没するまでの55年間、清水屋を江戸の大工町で生き残らせていきました。
二代目喜助の時代(1859〜1881)——擬洋風建築を切り拓いた棟梁
初代喜助の跡を継いだのは、養子で娘婿の藤沢清七、後の二代目清水喜助です。1859年、初代の没後に家業を継ぐと、幕末から明治初期の激動期に日本人による洋風建築の先駆けとなる仕事を次々に手がけていきます。
一つ目の代表作が、1868年の築地ホテル館。江戸幕府が計画した江戸開市に伴う外国人向けの宿泊施設で、アメリカ人建築家リチャード・ブリジェンスが基本設計を担当し、二代目喜助が実施設計・施工・経営を引き受けたホテルです。
翌年には明治新政府が外国人接遇に使用するようになり、日本で最初の本格的なホテルとして名を残しました(横浜居留地には1860年開業のヨコハマ・ホテルが先行しますが、規模と構造の両面で「本格的洋風ホテルの走り」と位置づけられています)。
木骨に洋風の意匠を取り入れた、いわゆる「擬洋風建築」の代表例です。銀座大火(1872年)で焼失してしまいましたが、開国直後の日本の顔でした。
二つ目が、1872年(明治5年)の海運橋三井組ハウス。これが翌年、渋沢栄一が総監役として立ち上げた第一国立銀行の建物として使われました。
特筆すべきは、外国人建築家の手を借りず、二代目喜助が自ら設計から施工まですべてを手がけた点です。木骨石造にベランダ、日本屋根、そして塔を組み合わせた和洋折衷の擬洋風建築で、日本人が独力で洋風建築を作り上げた最初期の1件と位置づけられています。
大工の家業が洋風建築を独力で読み解いた——このジャンプが清水の近代化の入り口でした。
満之助と渋沢栄一の時代(1881〜1916)——大工の家業から組織的な請負業へ
1881年、二代目喜助が世を去り、三代目清水満之助が跡を継ぎました。満之助は建設業の近代化に取り組んだ人物です。
1882年頃から会計帳簿を改良し、場所掛(現場責任者)制度で権限を委譲するなど、それまでの棟梁の勘に頼る家業経営を、組織的な請負業へと切り替えていきました。
ところが満之助は、1887年(明治20年)に若くして没します。跡を継いだ4代目は、この年、渋沢栄一を相談役に招きました。渋沢はこの後、1916年(大正5年)までおよそ30年にわたり清水建設の相談役を務めます。
三代目満之助が敷いた近代化路線の延長で、日本の近代資本主義の父から経営の指南を受けたわけです。第一国立銀行の建物を清水が建てた縁が、その後も生きていました。
二代目本店を1902年に辰野金吾設計・清水満之助店施工で建てるという仕事もあり、清水と第一国立銀行・辰野金吾の関係は明治期を通じて続いていきます。
会社化と戦後(1915〜現代)
3人が敷いたレールの上で、清水は近代企業の姿を整えていきます。1915年に個人経営から合資会社清水組へ、1937年に株式会社清水組へと改組。戦後の1948年、社名を現在の「清水建設株式会社」に変更し、1962年には東京証券取引所市場第一部に上場しました。
1964年の東京オリンピックで国立代々木競技場第一体育館の施工を担当してからは、超高層ビル・免震・環境と分野を広げていきます。ここからが「今の清水」を形作る話です。
代表建築物ダイジェスト——擬洋風から代々木競技場まで
清水建設が手がけた代表的な建築物を、時代順に4件紹介します。
| 建築物 | 竣工年 | 施主 | 施工体制 | 一言解説 |
|---|---|---|---|---|
| 築地ホテル館 | 1868年 | 江戸幕府(計画)→明治政府 | 二代目喜助が実施設計・施工・経営(基本設計:R.ブリジェンス) | 日本最初の本格的なホテル |
| 第一国立銀行(海運橋三井組ハウス) | 1872年 | 三井組 | 二代目喜助が単独で設計・施工 | 外国人の手を借りず日本人だけで作り上げた擬洋風建築。1873年に第一国立銀行として開業 |
| 浅草寺本堂 | 1958年 | 浅草寺 | 清水建設が施工(設計:大岡實) | 戦災で焼失した本堂の戦後再建。社寺建築の代表作 |
| 国立代々木競技場 第一体育館 | 1964年 | 国 | 清水建設が単独施工(設計:丹下健三/構造:坪井善勝) | 東京オリンピック競泳競技会場。吊り構造の傑作 |
築地ホテル館(1868年)
1868年9月に竣工した築地ホテル館は、日本最初の本格的なホテルです。江戸幕府が江戸開市に伴う外国人向け宿泊施設として計画し、アメリカ人建築家リチャード・ブリジェンスが基本設計を担当。実施設計・施工、そしてホテルの経営までを二代目清水喜助が引き受けました。
木骨に洋風の意匠を組み合わせた擬洋風建築の代表例で、開国直後の日本の顔として外国人客を迎えました。1872年の銀座大火で焼失してしまいましたが、日本の建築業界にとっての「洋風建築デビュー」ともいえる仕事です。
第一国立銀行(海運橋三井組ハウス)(1872年)
1872年6月竣工の海運橋三井組ハウスは、当初は三井組の銀行として建設が計画されました。しかし明治政府の政策により銀行事業の枠組みが変わり、翌1873年(明治6年)7月、渋沢栄一が総監役として立ち上げた第一国立銀行の建物として同行が開業したという経緯があります。
木骨石造にベランダ、日本屋根、そして塔を組み合わせた和洋折衷・擬洋風建築で、二代目清水喜助が外国人の手を借りず設計から施工まで独力で手がけた点が画期的でした。清水と第一国立銀行の関係は、後に二代目本店(1902年、辰野金吾設計・清水満之助店施工)でも継続していきます。
浅草寺本堂(1958年)
太平洋戦争で焼失した浅草寺本堂は、1958年に清水建設の施工で戦後再建されました。設計は大岡實。鉄筋コンクリート造で外観を復原した本堂は、東京の下町を象徴する建築として現在も浅草の観光客を迎えています。手斧始めの儀式を続ける清水建設が、社寺建築の伝統を戦後の技術で結晶させた代表作です。
国立代々木競技場 第一体育館(1964年)
1964年8月31日に完成した国立代々木競技場第一体育館は、同年10月の東京オリンピック競泳競技会場として建設されました。開会式まで39日を残しての完成です。
丹下健三の意匠設計と坪井善勝の構造設計を、清水建設が施工。吊橋と同じ原理で、2本の主柱から屋根全体を吊り下げるという当時としては前例のない構造を実現しました。
ちなみに第二体育館(バスケットボール会場)は大林組の施工です。今もオリンピック建築の傑作として世界的に評価されています。
清水の得意分野——社寺・免震・環境・LNG
清水建設が今、強みを発揮しているのは4分野です。
社寺建築の伝統は前章で見たとおり、江戸の大工店から続く技術が浅草寺本堂の戦後再建に結実しました。
免震・制震技術は、地震国日本の建築を支える柱の一つ。積層ゴムやダンパーなどの要素技術を蓄積し、大規模建築の耐震性能を高めてきました。
環境・エネルギー分野の技術開発にも力を入れています。土木側ではLNGタンクの施工が代表的な得意分野で、建築側では大規模病院など医療建築での実績が豊富です。
まとめ——業界人として知っておきたい清水の話
220年の物語をこの1本にまとめると、押さえておきたいのは以下の3点です。
その1.スーパーゼネコン5社の中で2番目に古い220年の老舗
まず年数から確認しておくと、清水建設は1804年(文化元年)創業。スーパーゼネコン5社の中では、竹中工務店(1610年)に次ぐ2番目の古株で、鹿島建設(1840年)より36年古い。江戸時代に創業した会社は5社中3社ですが、そのなかでも清水は220年を超える老舗です。
その2.3人の主役——初代喜助・二代目喜助・渋沢栄一
創業者の初代喜助は越中富山出身の大工。二代目喜助は日本人の手による擬洋風建築の先駆けを、築地ホテル館(1868年)と第一国立銀行の建物(1872年)で切り拓きました。
そして4代目就任と同時に招かれた渋沢栄一は、1887年から1916年までの約30年、清水の経営に関わっています。江戸の大工店を近代企業に脱皮させたのは、この3人が敷いたレールでした。
その3.今も本社で振るわれる「手斧始め」
清水は今も毎年、新年の仕事始めに手斧始めを本社で執り行っています。工事の安全と円滑な進行を祈る伝統的な建築儀式です。
江戸の大工店から続く建築の技を、現代の清水建設は儀式のかたちで残している——220年を1本の線でつないでいる会社の姿が、ここに見えます。

