建設業界に長く身を置いていれば、鹿島建設(かじまけんせつ)の名を聞く機会は少なくないはずです。
ただ、「江戸の大工の店から始まった」「『鉄道の鹿島』と称される」といった基本的な来歴を答えられる人は、意外と少ないものです。
この記事では、業界人として押さえておきたい鹿島の180年を整理しました。
鹿島建設とは——スーパーゼネコン5社の一角、超高層とダムの雄
鹿島建設(かじまけんせつ)は、いわゆる「スーパーゼネコン」5社の一角です。5社とは、鹿島建設・大成建設・清水建設・大林組・竹中工務店を指します。この中で鹿島は、2026年3月期に連結売上高3兆672億円を計上して業界首位に立ちました。5期連続の増収増益と、業績も好調な会社です。
得意分野を一言でまとめると、超高層ビル・ダム・原子力施設です。従業員数は8,854名(2025年3月末・単体)、資本金は814億円あまりを持ちます。
社長は2026年6月に就任した桐生雅文(きりゅうまさふみ)氏。1961年生まれで、早稲田大学理工学部建築学科を卒業して1984年に鹿島建設へ入社しました。以降42年のキャリアの8割超を建築現場で積んできた、いわゆる現場出身のトップです。
現社長の交代には、少し重い経緯があります。前任の天野裕正社長が2026年1月に在任中に逝去され、そのあと押味至一(おしみしいち)会長が約5か月間、社長を兼務しました。同年6月26日の定時株主総会を経て、桐生氏が新社長として舵取りを引き継いだ形です。
180年の物語——江戸の大工店から現代まで
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1840年 | 江戸・京橋で鹿島岩吉が「大岩」の屋号で創業 |
| 1860年 | 英一番館(横浜のジャーディン・マセソン商会)を施工 |
| 1880年 | 鹿島組を設立、鉄道請負に転身 |
| 1930年 | 株式会社化 |
| 1947年 | 「鹿島建設」に社名変更 |
| 1949年 | 技術研究所を設立(ゼネコン初) |
鹿島建設の180年は、大きく4つの節目に分けて見ると流れがつかみやすくなります。
創業と幕末(1840〜1860)
始まりは1840年(天保11年)。江戸の京橋(現在の東京都中央区あたり)で、鹿島岩吉が「大岩」という屋号で大工として独立したのが、鹿島建設のスタートです。
「大岩」は「大工の岩吉」を縮めた名前と伝わっています。岩吉は1816年に武蔵国上新井(現在の埼玉県所沢市)で生まれ、江戸で修業を積んだ棟梁でした。
当時の江戸には、無数の大工が競って仕事を取り合っていました。その中で頭角を現す転機になったのが、1860年の英一番館の施工です。
英一番館というのは、幕末に横浜に開かれたイギリスのジャーディン・マセソン商会の横浜店のこと。横浜居留地で最初の外国商館を、岩吉が建てました。
以後、鹿島は「洋館の鹿島」と呼ばれるようになります。
明治期に入ると、2代目の岩蔵が実業界で存在感を強めていきます。中でも大きかったのが、渋沢栄一との関係です。
王子の抄紙(しょうし)会社——今の王子製紙の前身にあたる紙の会社——の工事から始まった付き合いは、渋沢が岩蔵を高く評価したこともあり、鹿島は明治の実業家ネットワークにしっかりと食い込んでいきました。
鉄道の鹿島(1880〜昭和前期)
洋館で名を上げた鹿島ですが、次に進出したのは意外な分野でした。1880年(明治13年)3月、岩蔵は鹿島組を興し、本店を横浜から東京へ移して、鉄道工事を請け負う仕事へと事業内容を大きく変えます。
明治から大正にかけて鹿島が施工した鉄道線路の延長は、約2,300kmにも及びました。しかも施工エリアは日本国内だけでなく、当時の日本の植民地だった台湾・朝鮮半島や、日本が強い影響力を持っていた満州にも広がっています。
「鉄道の鹿島」という呼称を決定づけたのが、丹那トンネルの工事です。静岡県の熱海と三島を結ぶこの東海道本線のトンネルは、1918年に着工され、開通まで16年を要した難工事でした。1934年、ようやく開通したときには、鹿島の技術力は誰もが認めるものになっていました。
1930年(昭和5年)に株式会社化を果たし、「株式会社鹿島組」として近代的な企業組織を整えます。
戦後の飛躍と守之助(1947〜1949)
戦後の1947年、社名を現在の「鹿島建設」に変更します。同じころ、鹿島建設の運命を大きく変えることになる人物が経営の中心に立っていました。中興の祖と呼ばれる鹿島守之助(もりのすけ)です。
守之助は少し変わったキャリアの持ち主でした。1896年に兵庫県で生まれ、東京帝国大学法学部を卒業。1920年に外務省に入り、ドイツやイタリアで外交官として働きます。1927年、鹿島組組長・鹿島精一の長女・卯女と結婚して鹿島家に婿入り。1938年、外交官から鹿島組の社長へと転じました。
守之助は経営者として型破りな決断を続けます。中でも大きかったのが、1949年4月のゼネコン初となる自社技術研究所「鹿島建設技術研究所」の設立でした。
当時、大手ゼネコンで自社の技術研究所を持つ会社は他にありません。守之助は自ら初代所長を兼任し、鹿島の技術重視の企業文化を作り上げていきました。
高度成長期以降
戦後復興と守之助が敷いたレールに乗って、鹿島は高度成長期以降、超高層ビル建設の先駆けとして、ダムや原子力施設で、そして海外の巨大プロジェクトで名を上げていきます。ここからが「今の鹿島」を形作る話です。
鹿島の得意分野——なぜダム・原子力施設・超高層ビルに強いのか
鹿島は今、ダム・原子力施設・超高層ビルの3つの分野で特に強みを発揮しています。この強みは、これまで見てきた180年の歩みの中で少しずつ育ってきたものです。
ダム——土木技術の結晶
「鉄道の鹿島」で培った土木技術は、まずダム建設へと広がりました。1909年に京都・宇治川電気の水力発電所工事に着手し、1924年には日本初の近代式コンクリートダムとされる大峯ダムを完成。「ダムの鹿島」の第一歩を踏み出しました。
ダムには山を掘削してコンクリートを打ち込むタイプ(コンクリートダム)と、土や岩を盛って作るタイプ(ロックフィルダム等)があり、鉄道で鍛えた地盤・掘削・基礎処理・材料管理の腕が両方に生きる分野です。戦後は電源開発と多目的ダムで本格的に拡大し、鹿島がこれまで携わったダムは150を超えます。
原子力施設——土木技術の延長線上に
原子力施設への展開は戦後になってからです。ダムで培った大規模コンクリート施工の技術は、放射線を遮る厚い遮蔽壁の構築にそのまま生きました。
精密な鉄骨の組み立て、一切の妥協が許されない品質管理と合わせて、鹿島の技術研究所が積み上げてきた材料と施工管理の知見が、この難易度の高い工事を可能にしています。
超高層ビル——建築技術の到達点
1968年、日本初の超高層ビル「霞が関ビル」の施工に、鹿島は三井建設との共同企業体(JV)として参画しました。147メートルという当時としては前例のない高さの建物を、地震国の日本で建てるという挑戦。この霞が関ビルを皮切りに、鹿島は超高層建築の先駆者としての地位を築いていきます。
現代の鹿島は、この土木と建築の両輪に加えて、免震・制震技術など地震国日本ならではの技術で世界を相手に戦っています。
代表建築物ダイジェスト
鹿島が手がけた代表的な建築物・土木構造物を、時代順に4件紹介します。
| 建築物 | 竣工年 | 施主 | 施工体制 | 一言解説 |
|---|---|---|---|---|
| 霞が関ビル | 1968年 | 三井不動産 | 鹿島・三井建設 共同企業体 | 日本初の超高層ビル(147m・36階) |
| 東京湾アクアライン | 1997年 | 東京湾横断道路会社 | 区間分担(北側1,800m担当) | 開通当時「世界最長の海底道路トンネル」 |
| 明石海峡大橋 | 1998年 | 本州四国連絡橋公団 | 神戸側主塔基礎JV | 完成時、世界最長の吊り橋 |
| 東京駅丸の内駅舎 保存・復原 | 2012年 | JR東日本 | 鹿島・清水建設・鉄建の3社JV | 国内最大規模の免震レトロフィット |
霞が関ビル(1968年)
1968年4月に竣工した霞が関ビルは、日本初の本格的な超高層ビルです。高さ147メートル、地上36階建て。それまでの建物は建築基準法の関係で31メートル(100尺)を超えられなかったので、この霞が関ビルの登場は日本の建築業界にとって革命でした。
事業主は三井不動産で、施工は鹿島と三井建設の共同企業体(JV)が担当。鹿島は日本の超高層時代の幕開けを支えました。
東京湾アクアライン(1997年)
川崎と木更津を結ぶ全長15.1kmの海底トンネル・橋。アクアトンネル部分の9,607メートルは、開通当時「世界最長の海底道路トンネル」でした。1989年着工、1997年12月開通。総工費と技術的難易度から「土木のアポロ計画」とも呼ばれた壮大なプロジェクトです。
鹿島は川崎人工島から浮島側1,800メートルの北側シールドトンネルを担当。外径14.14メートルのシールドマシンで、外径13.9メートルのトンネル本体を組み立てながら海底を掘り進みました。
明石海峡大橋(1998年)
本州と淡路島を結ぶ全長3,911メートルの吊り橋で、中央支間長1,991メートルは、1998年の完成時には世界最長を誇りました(2022年、トルコの1915チャナッカレ橋が2,023メートルで記録を更新)。
1998年4月に開通。鹿島は神戸側の主塔基礎(橋を支える柱の海中土台)を担当し、水深60メートルの海底に直径80メートル・高さ70メートルの巨大なコンクリート基礎を築きました。日本の海洋土木の到達点を示す仕事です。
東京駅丸の内駅舎 保存・復原(2012年)
2012年10月にグランドオープンした保存・復原プロジェクトです。太平洋戦争で焼失したドーム屋根や3階部分を、辰野金吾が1914年に手がけた元の設計どおりに復原しました。
同時に、営業を続けたまま既存駅舎の下に免震装置を挿入するという、国内最大規模の免震レトロフィット(既存建物の耐震補強)工事もあわせて行いました。鹿島・清水建設・鉄建の3社JVで手がけた、国宝級の再生工事です。
まとめ——業界人として知っておきたい鹿島の話
180年の物語をこの1本にまとめると、押さえておきたいのは以下の3点です。
その1.「鹿島」は「かじま」と読む
まず読み方から確認しておくと、正式には「かじま」と濁ります。茨城県鹿嶋市の「かしま」と混同されがちですが、こちらは無関係。創業者・鹿島岩吉の姓に由来する社名です。
その2.江戸の大工店から始まった老舗中の老舗
1840年創業、180年超。スーパーゼネコン5社の中では、竹中工務店(1610年)、清水建設(1804年)に次ぐ古株で、江戸時代から続く老舗の1社です。江戸の大工店から「洋館の鹿島」、そして「鉄道の鹿島」へ。時代の節目ごとに看板を掛け替えながら生き残ってきた、しぶとい会社です。
その3.中興の祖・鹿島守之助は元外交官
戦後の鹿島を作ったのは、外交官出身という異色の経営者でした。1938年に社長になった守之助は、1949年にゼネコン初の自社技術研究所を設立しました。今の鹿島の技術力の源流は、この守之助の決断に遡ります。

